織田作之助の生まれ育った地-上汐町、谷町筋を行く

 

 

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織田作之助の墓にお線香を上げられる田尻玄龍ご住職。
 右手に杖をお持ちだが、足取りはしっかりしておられる。

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2010(平成22)年正月5日、楞巌寺再々訪問。

 三度目の正直とはこのことか!?玄関に向かってご挨拶を何度かしていたら、
 何と!織田作の高津中学同級生の田尻玄龍ご住職がお出ましになる。驚きやら、感激やらで

しばし茫然。頭を下げるのも忘れる始末。

 かくしゃくとしたご様子で、「今年九十六歳で、高津中
のB組の同級生やった。」と思い出話もされる。お線香も自
ら火をつけられる。
 写真も撮らせて頂いて、何という至福の時。この正月10日に
は、オダサク倶楽部の方々で六十三回忌の法要も営まれる
とのこと。

「自分は中学の時病気して、留年になったが、あとは元気に
生きてきた。織田は三高で結核うつされたのが悪かった。」
「東京に出て行くのは、みんな引き留めたが、飛び出して行きよった。

死にに行ったようなものや。」などとも話された。

 京都の青蓮院のご住職とも、同期?やとも話され、冊子も頂いた。
一言一言が同時代を生きた証のようで、身の引き締まる思い
だった。

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織田作之助の墓にお線香を上げられる田尻玄龍ご住職。
 右手に杖をお持ちだが、足取りはしっかりしておられる。

偶々この正月、鎌倉の病院にいる義父を見舞ってきたばかり
なのだが、大正3年寅年生まれの九十五歳。ご住職や織田
作の一つ下ということになる。
 今回身近な人との関係を初めて意識した。そんなこと考え
ると、我が父親は明治45年生まれ、織田作の一つ上というこ
とになる。むろん生きた世界は違う。

父は昭和20年2月「旧満洲國海拉爾(ハイラル)」にて
戦病死。
 33歳は織田作と一緒だが。少なくとも昭和10年代大阪市
都島区で生活し(鐘紡の工場長をしていたとか、後自営で既
製服縫製業を始めた)、昭和16年12月には母と結婚してい
る。同時代に北と南の隔たりはあるが、同じ大阪の空気を吸
っていたということになる。
 もっとも父は岐阜県養老郡時村出身、母は尾張の丹羽郡
前野生まれで、ともに大阪人ではない。僕は都島本通りの江
産婦人科で昭和18年に生まれているので、大阪出身と言
える。だが空襲の危険もあって、昭和19年、岐阜の祖父母
の家に預けられ、そこで戦後の24年春頃まで育てられたの
で、大阪弁の習得は不十分と言えるかも知れない。オダサク
とはスレ違いということになる。

「善哉忌」織田作之助しのぶ 大阪・楞厳寺
                 2010年1月11日7時56分配信
産経新聞

 大阪を舞台に、多くの作品を残した作家、織田作之助(1913
~47年)の命日にあたる10日、作之助をしのぶ「善哉忌」
が、大阪市天王寺区の楞厳(りょうごん)寺で営まれた。
織田作之助は、大阪市南区生玉前町(現天王寺区)生まれ。
小説「夫婦善哉」で文壇にデビュー。庶民の哀感を描き、坂
安吾らとともに、無頼派として脚光を浴びたが、33歳で死去
した。
    この日の善哉忌にはファンら約50人が参加、墓前で作品
に登場する音楽を蓄音機で流すなどした。作之助と旧制高津中
学の同級生で、同寺住職の田尻玄龍さん(95)が「放課後に
制服姿で道頓堀や百貨店をうろついて、先生に怒られていた」
など思い出を話した。
    市民グループ「オダサク倶楽部」の井村身恒さんは「生
誕100年も近づいてきた。多くの人に作品や人物を知ってもらえ
るよう活動したい」と話していた。 最終更新:1月11日7時56分<B
 
    以上が産経新聞のネットニュースである。
   織田作の命日を「善哉忌」と呼ぶのを初めて知った。
   「作品に登場する音楽を蓄音機で流す」というのに、興味
を持った。
 なるほど友だちの家に蓄音機を持ち込んで、レコードを聴い
ていた、などという話もあるし、クラシックから流行歌までけっこ
う聴いていたようだから。
    そういえば、義父の家の物置からカビついたSPレコード
がたくさん出て来たことがあった。「若いころはカフェーでよう
聴いたもんや。」と言っていた。大正3年生まれの織田作世代
である。

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 偶々この正月、鎌倉の病院にいる義父を見舞ってきたばかり
なのだが、大正3年寅年生まれの九十五歳。ご住職や織田
作の一つ下ということになる。
 今回身近な人との関係を初めて意識した。そんなこと考え
ると、我が父親は明治45年生まれ、織田作の一つ上というこ
とになる。むろん生きた世界は違う。

 父は昭和20年2月「旧満洲國海拉爾(ハイラル)」にて
戦病死。
 33歳は織田作と一緒だが。少なくとも昭和10年代大阪市
都島区で生活し(鐘紡の工場長をしていたとか、後自営で既
製服縫製業を始めた)、昭和16年12月には母と結婚してい
る。同時代に北と南の隔たりはあるが、同じ大阪の空気を吸
っていたということになる。
 もっとも父は岐阜県養老郡時村出身、母は尾張の丹羽郡
前野生まれで、ともに大阪人ではない。僕は都島本通りの江
産婦人科で昭和18年に生まれているので、大阪出身と言
える。だが空襲の危険もあって、昭和19年、岐阜の祖父母
の家に預けられ、そこで戦後の24年春頃まで育てられたの
で、大阪弁の習得は不十分と言えるかも知れない。オダサク
とはスレ違いということになる。



田尻玄龍ご住職は、2010(平成22)年10月10日御逝去され
ました。謹んでご冥福をお祈り致します。
これは、「オダサク倶楽部」の「善哉忌2011.1.10」の案内
によって知ったことでした。お正月にお会いした時には、まだ
まだお元気で長生きされると思ったのですが、残念な思いです。

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楞巌寺墓地内にある「織田家先祖代々
墓」。      
今回(2010.1.5)やっと見つけ、お参り出来
た。

墓石の右側面に三名の名が刻まれてい
る。            
雲譽鶴林禪定門  昭和七年九月廿九日      
             
                               織田鶴吉    
光譽明音禪定尼  昭和五年十二月廿四日
            仝  たかゑ
   智譽妙香童女 明治四十三年六月十一日
            仝   こと    
    は夭折した三番目の姉である。

「(昭和11年)十二月二十三日は母たかゑの
七回忌に当たった。楞巌寺に織田家先祖代々
の墓を建てた。父鶴吉、母たかゑ、三姉コトの
名を刻む。作之助建之となっているが、そんな
余裕はむろんない。実際は姉の竹中タツの手
でできた。」
(「織田作之助ー生き愛し書いた」大谷晃一
 沖積社 平成十年七月十八日一刷 143頁)
   裏面には「昭和十一年九月
          織田作之助建之」とある。

 

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織田作之助のお墓
2009.6.20撮影
楞巌寺再訪。からほり通りの
花屋さん「山頭花」で買ったささやかな
お花を捧ぐ。
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 常樂院章譽眞道居士
(織田作之助 戒名 1947.1.10逝去)

 一譽妙鏡禅定尼
(妻 一枝 戒名 1944.8.6逝去)


2008.11.17最初の訪問で見落とし、2009.6.20
再訪して確かめる。

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織田作之助

小説家織田作之助ハ大正二年十月二十六日大阪市天王寺区
上汐町ニ織田鶴

吉たかゑノ嫡男トシテ生レ高津中学校ヲ経テ第三高等学校
学ンダ天賦

ノ文才ハ夙クヨリ現レ處女作夫婦善哉ニヨツテ一躍新進作家
ノ最前列ニ加

ラレタ 爾来ソノ警抜ノ着想ハ奔逸シテ郷土大阪及ビ大阪人
ヲ主題トス

ル長短ノ佳篇ヲ相次イデ発表昭和文壇随一ノ小説巧者ノ名ヲ
擅(ほしいまま)ニシタ サ

レド惜シムベシ鬼才ハ文学ヲ熱愛スルノ余リ虚弱ノ己ガ肉体
ヲ忘レタ即チ

讀賣新聞ニ長篇土曜婦人ヲ連載中東都ノ旅舎ニ宿痾革マリ
昭和二十二年一

月十日ロマンヲ発見シタノ傳説的ナ一語ヲ遺シ世ヲ挙ゲテノ
哀惜ノ裡ニ忽

焉トシテ夭折シタ  行年三十五歳


       昭和二十三年十一月     藤澤 桓夫文

                    吉村正一郎書
                       
                 常樂院章譽眞道居士

                  一譽妙鏡禪定尼

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楞巌寺本堂前 織田作之助墓 墓誌 全文 

(刻文字のマ
マ)
文は藤澤 桓夫 書は吉村正一郎

2008.11.17、2009.6.20 二度訪問・実写より起こす。
大谷晃一著「生き愛し書いたー織田作之助伝ー」
(昭和四十八年十月八日第一刷 講談社)と照合。
(なお、大谷氏の本の掲載文字は、新漢字に改めているの
で、碑文のママ写し取ったのはこれが初めてと思われる。)

 

 

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織田作の眠る楞巌寺(城南寺町)門前
                                               2008年11月17日撮影

昭和24年1月10日、楞巌寺に「織田作之助墓」が建ち一枝
と共に葬られる。
高津中学同級生の田尻玄龍師がご住職
で、どちらの葬儀でも読経された。
 妻一枝、昭和19年8月10日、織田作之助、昭和22年1月23
日に執り行われている。
 谷町筋界隈は織田作が終生愛した地である。